姿勢が悪かった。ガサツな自分のままではいたくなかった。茶道を始めたきっかけは日常の何気ない事でした。
裏千家学園に学び、家元の弟子となり20年以上この道を続けてきました。興味は尽きる事なく次から次へと新しい発見が茶道にはあります。茶の道は辿るに広き武蔵野のと和歌に詠んだ江戸時代の宗匠の心も頷けます。
茶道を始めてから変わったことは毎日をできるだけ規則正しく丁寧に生活していこうと思うようになったことです。水屋での準備、片付け、場所を整えて、自分も整う。作法は自分を整えて、リセットしてくれます。
いつのまにか自分も生活習慣が変化していました。
自分でも変われたので自分以外の人なら尚更、変わることは難しくないと思いました。
忙しい日々の暮らしの中、ほんの少しだけのゆっくりと流れる時間と場所を提供できたらいい。
今もそんな思いで教室を続けています。
人生には波がありますが、そんな中で自分が自分でいられる場所がお茶であったらこれほど嬉しいことはないですね。
2021年06月26日
リセット
posted by torianchado at 18:50| Comment(0)
| 日記
2021年06月13日
たくさんのご縁に恵まれて
自分には本当にたくさんの師と仰ぐ方がいます。
人のみならず、先人の残した書物からもたくさんの学びがあるので師匠だからです。
何故そう考えるかと振り返るとやはり今よりもっと良くなりたい想いが強いから、自分の至らなさが見えてくるのだと最近思いました。
いつもかも心穏やかに過ごせれば良いですが、なかなか現実難しく、つまらないことで一喜一憂したり、ついつい自慢するような気持ちが頭をもたげて、自分は『偉い』と勘違いさせます。
誰かの反応が良くないと感じる時は大抵自分が周りのことを見えなくなっていたり、身体が疲れていたりすることが多いからです。
そんな時はいつも先ず、身体を休めることにしています。
何も考えず、マイナスな考えは身体の疲れからきていると言い聞かせて考えるのをやめます。
上手くいく時もありますが行かない時もあります。
そういう時いつも思い出す呪文のような言葉が2つあります。
災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難を
のがるゝ妙法にて候
こちらは良寛の言葉です。
もう一つは本願寺蓮如上人の白骨の御紋章
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふことをきかず、
一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。
すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ち、ひとつの息ながくたえぬれば、
紅顔(こうがん)むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、
さらにその甲斐あるべからず。さしてもあるべきことならねばとて、
野外におくりて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかて、
阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
良寛和尚からは自身に起こる事象をありのままに受け入れることを、
蓮如上人からは人の一生涯は淡々とこの不思議な人生というものを歩むことを
教えてもらいます。
いつまでも、まっすぐ、命のある限り今を精一杯生きる。
常に探究心を持ってより成長したいですね。
人のみならず、先人の残した書物からもたくさんの学びがあるので師匠だからです。
何故そう考えるかと振り返るとやはり今よりもっと良くなりたい想いが強いから、自分の至らなさが見えてくるのだと最近思いました。
いつもかも心穏やかに過ごせれば良いですが、なかなか現実難しく、つまらないことで一喜一憂したり、ついつい自慢するような気持ちが頭をもたげて、自分は『偉い』と勘違いさせます。
誰かの反応が良くないと感じる時は大抵自分が周りのことを見えなくなっていたり、身体が疲れていたりすることが多いからです。
そんな時はいつも先ず、身体を休めることにしています。
何も考えず、マイナスな考えは身体の疲れからきていると言い聞かせて考えるのをやめます。
上手くいく時もありますが行かない時もあります。
そういう時いつも思い出す呪文のような言葉が2つあります。
災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難を
のがるゝ妙法にて候
こちらは良寛の言葉です。
もう一つは本願寺蓮如上人の白骨の御紋章
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふことをきかず、
一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。
すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ち、ひとつの息ながくたえぬれば、
紅顔(こうがん)むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、
さらにその甲斐あるべからず。さしてもあるべきことならねばとて、
野外におくりて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかて、
阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
良寛和尚からは自身に起こる事象をありのままに受け入れることを、
蓮如上人からは人の一生涯は淡々とこの不思議な人生というものを歩むことを
教えてもらいます。
いつまでも、まっすぐ、命のある限り今を精一杯生きる。
常に探究心を持ってより成長したいですね。
posted by torianchado at 17:57| Comment(0)
| 日記
2021年06月11日
あおぞら
久しぶりの自分時間。どう使おうか。あれこれ悩んでるうちに時間がどんどん過ぎていく。普段は慌ただしい生活を送っているのは誰しも同じだと思います。でも週末に自分時間が待っていると考えて塵外に楽しみを見つけ出し心にとどめておく。そうすればやりたいことは沢山あっても心に留めたことをすれば良いと思います。
よく晴れた朝の太陽が南中する前の時間は比較的涼しいです。
来月朝から茶事を社中で行います。
先人たちも日本の暑い夏を工夫して涼を得ていたのでしょう。
なかなか感覚的に昔と同じというわけには行きませんが、どれくらい表現できるかわかりませんが
いにしえの茶人の感覚に少しでも近づいていきたいです。
よく晴れた朝の太陽が南中する前の時間は比較的涼しいです。
来月朝から茶事を社中で行います。
先人たちも日本の暑い夏を工夫して涼を得ていたのでしょう。
なかなか感覚的に昔と同じというわけには行きませんが、どれくらい表現できるかわかりませんが
いにしえの茶人の感覚に少しでも近づいていきたいです。
posted by torianchado at 10:39| Comment(0)
| 日記
2021年06月08日
鈴木さんのこと
邂逅の出会いは自分の気持ちを高めてくれ、心に気力をみなぎらせてくれる。
料理人のSさんとの出会いは人生の中で師と呼べる人との数少ない出会いでした。
料理はもちろん、器、手際、気遣い、さりげなさ、とても練れた方。
お茶のお点前でなんの本で読んだのか忘れましたが、利休の点前はいつ始まっていつ終わったのかわからないくらい客を心地よいまま、さらりとしたものだったと書いてありました。
しかも少しも偉ぶったところもなくただサラサラ時間が流れていく。
謡曲『邯鄲』の一炊の間という言葉がぴったり当てはまります。
料理を出しながらポツリポツリと口から漏れる言葉の一つ一つがもてなしです。
体験して自分で試行錯誤して導き出した話には力があります。
できるだけお会いして触れたい方そんなふうに思える人が数名います。
至らない自分を育ててくれるのは弟子の皆さんだと改めて思いました。
料理人のSさんとの出会いは人生の中で師と呼べる人との数少ない出会いでした。
料理はもちろん、器、手際、気遣い、さりげなさ、とても練れた方。
お茶のお点前でなんの本で読んだのか忘れましたが、利休の点前はいつ始まっていつ終わったのかわからないくらい客を心地よいまま、さらりとしたものだったと書いてありました。
しかも少しも偉ぶったところもなくただサラサラ時間が流れていく。
謡曲『邯鄲』の一炊の間という言葉がぴったり当てはまります。
料理を出しながらポツリポツリと口から漏れる言葉の一つ一つがもてなしです。
体験して自分で試行錯誤して導き出した話には力があります。
できるだけお会いして触れたい方そんなふうに思える人が数名います。
至らない自分を育ててくれるのは弟子の皆さんだと改めて思いました。
posted by torianchado at 20:21| Comment(0)
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