自分には本当にたくさんの師と仰ぐ方がいます。
人のみならず、先人の残した書物からもたくさんの学びがあるので師匠だからです。
何故そう考えるかと振り返るとやはり今よりもっと良くなりたい想いが強いから、自分の至らなさが見えてくるのだと最近思いました。
いつもかも心穏やかに過ごせれば良いですが、なかなか現実難しく、つまらないことで一喜一憂したり、ついつい自慢するような気持ちが頭をもたげて、自分は『偉い』と勘違いさせます。
誰かの反応が良くないと感じる時は大抵自分が周りのことを見えなくなっていたり、身体が疲れていたりすることが多いからです。
そんな時はいつも先ず、身体を休めることにしています。
何も考えず、マイナスな考えは身体の疲れからきていると言い聞かせて考えるのをやめます。
上手くいく時もありますが行かない時もあります。
そういう時いつも思い出す呪文のような言葉が2つあります。
災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難を
のがるゝ妙法にて候
こちらは良寛の言葉です。
もう一つは本願寺蓮如上人の白骨の御紋章
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、
まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりといふことをきかず、
一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。
すでに無常の風きたぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ち、ひとつの息ながくたえぬれば、
紅顔(こうがん)むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、
さらにその甲斐あるべからず。さしてもあるべきことならねばとて、
野外におくりて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかて、
阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
良寛和尚からは自身に起こる事象をありのままに受け入れることを、
蓮如上人からは人の一生涯は淡々とこの不思議な人生というものを歩むことを
教えてもらいます。
いつまでも、まっすぐ、命のある限り今を精一杯生きる。
常に探究心を持ってより成長したいですね。
2021年06月13日
たくさんのご縁に恵まれて
posted by torianchado at 17:57| Comment(0)
| 日記
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