まず縄文式土器とは日本最古のやきもので紀元前七千年前には焼かれていた。縄文土器とは縄目の模様がついた土器で大森貝塚を発見したエドワードモース博士が命名した呼び名"cord marked pottery"が、日本語の『縄文式土器』となった

北海道から九州まで、日本全土で作られていた。
そして次に国内で焼かれた弥生式土器は東京本郷弥生町で発見されたので、この名前がついた。弥生式土器は紀元前三百年ころに九州で生まれ短期間で中部地方まで広がった。三世紀には終わりをつげる焼物だが、日常用器の土師器として残る。埴輪は土師器にあたる。
軟質で壊れやすい土師器に代わって登場するのは四世紀から七世紀にかけて焼かれた須恵器。縄文、弥生、土師器との大きな違い
は丘陵に窯を築き、ロクロで成形しているところ。須恵器は朝鮮半島の影響をうけ大阪府堺市を中心に生産され、各地に広がっ
た。
ちなみに中国では八千年前に釜が築かれ、四千五百年前にはロクロで成形された陶器が存在した

次は七世紀ごろには釉薬をかけた陶器が登場する。施釉陶器の始まりは鉛と銅を合わせた鉛釉で緑色に発色するもの。八世紀には中国から移入された中国陶磁に倣い、唐三彩の技法を踏襲し、奈良三彩が生まれる。正倉院三彩とも呼ばれる。こちらは奈良時代の終わりまで続く。
(村山武 窯別 日本のやきもの 淡交社)参照
このあとようやく日本的な焼物が生まれる。植物の燃やした灰を釉薬としてつくられた『灰釉陶』がそれである。
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