2013年04月27日

山呼万歳声(山呼ぶまんぜいの声)

先日の茶会でこの掛軸を使いましたが、意味はだいたいこういうものです。

引用は「漢書」の「武帝記」から出ているようです。
その故事は前漢の武帝が自ら山に登り天下泰平、国家安泰を祈った。この時臣下一同が武帝の壽を祝して歓呼の声を挙げたところ、それが全山にこだまして「万歳、万歳、万々歳」と三度聞こえたという故事から。
お目出度い故事から出ているのでお祝いや目出度い茶席などでよく床にかけられるものです。

禅語の解釈としては、禅の悟りの目と耳とを以て見聞覚知した体験的事実の上に立った語です。

以上新版一行物上巻 芳賀幸四郎著より

何か自分の中で悟りまたは気づきがあったとき視界が明るくなりすべてが祝福してくれるように感じますがその体験と近いかもしれません。

posted by torianchado at 07:26| Comment(0) | 禅語

2012年09月27日

応無所住、而生其心 おうむしょじゅう にしょうごしん

達磨大師から始まる中国禅宗はその法を嗣ぐ六祖慧能禅師の時に一気に世に知られることになった。この六祖が貧しい薪売りの時に町の中で聞こえてきたお経のことばがこの『応無所住、而生其心 おうむしょじゅう にしょうごしん』これを聞いて薪売りの少年は悟りを得た。六祖慧能禅師に関してはまだまだエピソードがあるのでまた紹介する。
この禅語の意味は、見るもの聞くもの、四方八方へ、心は動きたいように動きながら、しかもどこへも、とどまらないことが大切である。いかなることに遭遇しても、臨機応変、自在のはたらきができ、とらわれることのない心を養うことが大切という意味。
自転車を運転していてあらゆる方向に気を配り走行していて、ふと何かに気を取られ、とらわれてしまうことがあれば必ず事故を起こしてしまう。そんなとらわれない心を目指す修行を茶道のなかでも見つけたいものである。

禅語の味わい方 西部文浄著 参照
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2012年08月22日

随所作主立処皆真

随所作主立処皆真(ずいしょに主を作ればりっしょ皆真なり)

何事をするにしても、また、いつ、いかなるところに置かれても、環境に翻弄されることなく、その時との場に自分自身をしっかり持ち、その環境の中で流されることなく心を保って動揺などすることがないという意味です。具体的には、社長なら社長、社員なら社員、夫は夫として、妻は妻らしく、その本文を尽くすこと。仕事をするときは徹底的に仕事、遊ぶときは徹底的に遊ぶこと。災難にあったら災難に取り組み、病気になれば病気に取り組む。要は自分自身のことは自分で考えて行動する。他人に自分の人生をゆだねた生き方をしないということ。結論として自分で考えることの習慣を身につけること、それも心の形なので、まずは、考え方の形を身に着けていきましょう。

「西部文淨 禅語の味わい方より」

七事式の「且座」ではそれぞれの役割が決まっていて自分の役割をそれぞれが演じ切ることで一つの稽古が完成する。まさにこの禅語といわんとしているところは同じ。こういう気持ちで点前に臨んでみるとかなり充実した稽古ができると思う。
posted by torianchado at 10:40| Comment(0) | 禅語

2012年06月05日

白雲自去来{はくうんおのずからきょらいする)

白雲自去来[はくうんおのずからきょらいする)と読みます。
出典は五燈会元という書物で元々は『青山元不動白雲自去来』(せいざんもとふどうはくうんおのずからきょらいする)です。

意味は周囲の雲がどの様に去来しようがその中心となる青山は、そんなものに動かされることなく、元の姿を変えない。日常生活にしても是非、得失、愛憎、悲喜、順逆などいろいろな雲が絶えず悩まし苦しめるが煩悩のくもに埋没されていたずらに右往左往することなくどっしり腹を据えて流されないように心がければ自己を見失いにくくなるという意味。

禅語の味わい方 西部文浄著参照

茶道の稽古でもやはり間違ったときアッと思い動揺してしまうが、動揺を表に出ないように点前を意識して稽古すると、だんだん動じない心が身について多少のことがあっても自分を見失わず快適に日々を過ごすことができます。現代にはとくに必要な心構えだと思います。
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2012年05月07日

薫風自南来(くんぷうじなんらい)

「薫風自南来」(くんぷうじなんらい)と読みます。
出典は東坡集(中国の有名な詩人蘇東坡の詩集)で全文はこうなります。

人皆苦炎熱(人は皆炎熱に苦しむも)
我愛夏日長(我は夏日の長きを愛す)
薫風自南来(薫風南より来たり)
殿閣生微涼(殿閣微涼を生ず)


この漢詩の逸話は中国唐時代の文宗帝が最初の二行をつくりました。「世間の人は暑さに苦しめられて夏を嫌がるけれども、私はむしろ夏の日の長いのが好ましい」という。これに対して後の二行は「柳公権(りゅうこうけん)」がつくりました。意味は「それはそうでしょう。どれほど暑い夏の日でも、折節ソヨソヨと薫風が南から吹いてきて、広い宮廷の中は涼しく厚さなど少しも覚えないのですから」といいます。蘇東坡はこれにあと四行付け加えました。それは皇帝は広々とした宮廷の中で何の不自由もなく生活してますが、世の中の人は暑さに苦しんでいますからその涼しさを少しでも万民に分け与えてもらいたいものですと。

禅語としての解釈は雲門禅師と大慧禅師の説法の逸話があります。

「薫風自南来殿閣微涼生」は煩悩妄想の焔を消し、分別執着の垢をすっかり払いつくした、清涼そのものの境地を表現したものです。

(禅語の味わい方 西部文淨著より抜粋)
posted by torianchado at 14:18| Comment(0) | 禅語