2012年04月13日

無功徳

無功徳(むくどく)と読みます。日本では「だるまさん」として親しまれている「達磨大師」の放った名言。達磨大師は禅宗の祖でインドから中国へ禅宗を広めるためにはるばるやってきた。当時中国に「梁」という国があり、時の皇帝「武帝」は寺の建立、僧侶の育成など信仰の篤い皇帝で「仏心天子」などとも呼ばれています。「武帝」が達磨大師を宮殿に招き問いかけた時に発せられた言葉が「無功徳」。「武帝」はこれだけ仏教の普及に力を入れている自分にはどれだけの見返りがあるがと達磨大師に尋ねますが「無功徳!」と言い放たれてしまします。この話は「景徳伝灯録」という書物の中に出てきます。
人は何かをするとき、その見返りを考えがちですがそれを求めてまたは期待して行動することは、達磨大師のような悟りをえた方には、まったく無意味だということでしょう。3月に訪ねた静岡の柴屋寺の先代住職の書かれた色紙が茶室の床の間にかかっていた。そこに「無功徳」とかかれていた。味わい深い言葉だと改めて頭が下がる思いがした。
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2012年03月24日

柳緑花紅

柳緑花紅 真面目(やなぎはみどり はなはくれない しんめんもく)

柳は緑の糸を垂れ、花が紅に咲きほこっている。自然のありとあらゆるものは、色も形も異なって、千差万別の様相を呈しているが、あるがまま、そのまま、いずれも悟りの現れ、仏の姿であるということ。

原文は中国の詩人蘇東坡(そとうば)の漢詩。

蘇東坡とは
蘇軾(そ しょく、景祐3年12月19日(1036年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。字は子瞻(しせん)。唐宋八大家の一人。蘇洵の長子であり、弟の蘇轍とともにそれぞれ大蘇、小蘇とも称される。

『西部文浄禅語のあじわいかた参照』

ヘルマンヘッセの書いた『シッタールダ』という作品がある。
2人の若いバラモン(修行僧)が悟りを目指して修行を続ける。
2人はお釈迦さまに出会い、1人は教団に入り修行をする。もう1人は俗世に戻り商売をしたり、遊んだり様々な体験をする。
月日が流れ2人は再会する。悟りを得たのはお釈迦さまの教団に入らなかった方。教団に入ったほうは『教団に入り修行して、自分で自ら理解しないと悟りを得れない』とわかった。もう1人はお釈迦さまに出会ったときにその事を感じ取り教団に入らず、自問自答して自分で花を咲かせた。地に足をつけていきたいものである。
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2012年03月16日

拈華微笑

拈華微笑(ねんげみしょう)と読みます。ちょっと長い引用ですが


仏教を開いたお釈迦様にはたくさんの弟子がおられたがその中でも特に優れた能力をもっってお釈迦様の教団を支えた10人を十大弟子という。

釈迦の十大弟子

@シャーリープトラ(智慧第一)般若心経によく出てくる「舎利子」はこの方のこと。

Aマウドガリヤーヤナ(神通第一)通称目連尊者。仏教の中で最高の悟りを開いたものは、6つの超 能力を得るとい子考え。その中の神通力が勝っていた。

Bマハーカーシャパ(頭陀第一)通称摩訶迦葉尊者。頭陀とは衣食住に対する執着を払いのけるため実践する行のこと

Cアルニッダ(天眼第一)通称阿那律。修行をする中で視力を失ったアルニッダは真理を見る智慧の 眼が開かれた。

Dスブーティ(解空第一)通称須菩提。お釈迦様の教えの一つ「空(くう)」をだけよりも理解して いた。

Eプールナ(説法第一)通称富楼那尊者。布教活動を誰よりもよく行った。

Fカーティヤーヤナ(広説第一)教えを誰よりもわかりやすく説くことに長けていた。また辺境の地 への説教をよく行った。

Gウパーリ(持律第一)カースト制度の最下層シュードラ(奴隷)の出身でありながらお釈迦さまに 許され出家。教団の中で戒律に精通していた。

Hラーフラ(密教第一)出家する前のお釈迦様の息子。お釈迦様の作った規律をよく守ったので密教 第一といわれる。

Iアーナンダ(多門第一)通称阿難尊者。お釈迦様の侍者として25年直に教えを聞いていた。

(釈迦の本 学研より)



拈華微笑は「Bの摩訶迦葉」の逸話である。お釈迦様が弟子たちを集めて説法をする。あるとき一輪の花を無言のまま高くかざされた。弟子たちが戸惑う中でこの摩訶迦葉尊者だけが破顔し微笑された。

何か習い事をしていて師弟関係を続けていると言葉や文字では表せない師匠の言わんとすることをくみ取ることが自分を高めるために必要になってくる。まさに花一輪で理解した以心伝心の教えを示した禅語だいえる。
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2012年02月24日

桃花春風笑(とうかしゅんぷうにえむ)

桃花春風笑(とうかしゅんぷうにえむ)と読みます。上の句があり『人面不知何處去(じんめんはしらずいずれのところにか去る)』
桃の花は去年と同じように美しく咲いたけれども、去年見た人はもはや居ない。人の世の無常さを嘆いた句である。
伊勢物語の四段に同じような意味の和歌が詠まれている。『月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして』
禅語の云わんとするところは、私たちはいたずらに嘆いてばかりおらず、無常なるがゆえに、油断なく一日一日を充実して生きていきたい。という意。

出典は『槐安国語』
個人的にこの漢詩の物語が好きなので全文を載せておく。

去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何処去
桃花依旧笑春風
去年の今日、この門の中で一人の乙女に出会った
乙女の顔は桃花の紅を映じていよいよ美しく、桃の花もまた乙女のあでやかさを反映して、さらに紅を増したように思われた。
あの乙女はどこへ行ったのだろうか。ただ桃の花だけが、去年と同じように春風を受けて美しいさいている。

物語はこの後、二人が再会を果たしめでたく結ばれるというもの。
桃の季節らしい語句といえるかな。

(西部文浄禅語の味わい方より)
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2012年02月13日

紅炉上一点雪

紅炉上一点雪(こうろじょういってんのゆき)と読みます。

碧巌録という修行僧の教科書に「荊棘林透納僧家 紅炉上一点雪如(けいきょくりんをとおるのうそうけ こうろじょういってんのゆきのごとし)」とあります。

意味は厳しい修行を積んだ真の禅僧のはたらきというものは、紅炉上一点の如く少しも形跡をとどめないという意味です。何かあっても後に尾を引かず、物事にとらわれず、どんな状況においても自由自在の心の働きができるという意味。「西部文淨 禅語の味わい方より抜粋」

昔師匠から言われたことがある。物事にとらわれたり悩んだりするのは「心の癖」だと。
癖は治るのでその癖をお茶でひたすら一心に点前をすることによって取り除く。それが茶の修行の道だと。油断すると心のくせがついてしまい心が曇ってしまう。いつも素直な心を心がけたいものである。
posted by torianchado at 21:58| Comment(0) | 禅語