2012年11月21日

八丁堀七不思議

都内散策と言っても行ったわけではないのだが雄山閣という出版社から出ている『御家人の私生活』という本に八丁堀七不思議という項があって面白いで紹介したい。またいずれ訪ねてみたいと思う。大体七不思議というのは多くは妖怪変化の部類のものが多いが『八丁堀七不思議』は妖怪変化は一つもなく全てはここでしか見られない風俗、習慣の珍しさであった。
@『奥様あって殿様なし』江戸時代の武士夫婦の呼び方は階級などで決まっていた。お目見え以上といって年始の江戸城登城の挨拶の際、将軍と対面できる者(立ったまま挨拶だけのかんたんなものだが)は夫は『殿様』妻は『奥様』と呼んだ。そしてお目見え以下といって将軍にお目見え出来ない者は夫は『旦那様』妻は『ご新造』と呼んだ。町与力は身分がお目見え以下であるから『旦那様、ご新造さま』であるはずだが実際は『旦那様、奥様』であった。
A『女湯の刀掛け』江戸の町銭湯には武士のくるところも珍しくなかった。ところが刀を帯刀しない女湯に刀掛けがあった。理由は町与力が早朝お風呂に入りたい時には空いている女湯に入浴していたからだ。男湯は風呂好きの江戸の男たちで朝からごった返していたが女湯は朝から入るものもなく空いていたからだそうだ。
B『金で首が継げる』地獄の沙汰も金次第で罪人を取り扱う与力、同心へ渡賄賂によって罪一等が減ずることは今も昔も変わらない。
C『地獄の中の極楽橋』犯人を取り調べる八丁堀の旦那衆は見ようによっては地獄の鬼にも見えたかもしれない。その旦那衆が住む八丁堀に『極楽橋』という名前の橋があった。
D『貧乏小路に提灯かけ橋』八丁堀の組屋敷は拝領地なので町名などはないが里俗の字はあった。『ちょうちんかけ横町』『どぶ棚』『ゆうれい横町』などや『貧乏小路』などの変わった名前もあった。
E『寺あって墓なし』もともと寺があったが他へ寺を移し、その跡を与力、同心の組屋敷にしたため町名が『八丁堀寺町』となっていた。もともとあった寺がなくなって名前だけが残った。
F『儒者、医者、犬の糞』与力の拝領組屋敷でもその土地はかなり広かったようだ。身分が高いものだと300坪くらい低い者でも100坪くらいあった。当然こんなに広い土地は持て余してしまうので貸地にしていた。そこに多く住んでいたのが『儒者、医者』であった。武家の土地に武士以外のものが住んでいた理由はこれである。

これを読んでいると八丁堀へも近々足を運んで見たくなった。
posted by torianchado at 15:27| Comment(0) | 都内散策

2012年11月08日

大鳥神社酉の市

11月の十干十二支の最初の酉の日に大鳥神社で行われる酉の市に行ってきた。江戸時代から大鳥神社で行われる特殊な行事で御祭神の日本武尊の焼津で焼き討ち御難に遭われたときに当時は武器であった熊手を使って難を逃れたという逸話から熊手が縁起物として売られるようになったという041.JPG042.JPG時間が早かったのでまだそんなに混んでなかった。

045.JPG046.JPG熊手を扱うお店は4件あり店によって飾りがずいぶん違うが茶道教室なので一番おとなしめな「滝」さんの熊手を購入わーい(嬉しい顔)買い方も知らない自分に大将がわかりやすく説明をしてくれました。「1万円と言われたら、値切るんだよ!千円値切ればその千円をご祝儀にって具合にね」ご祝儀というのは千円につき一本締め三千円なら三本締めと言って支払う代金は同じだけれど手締めをしてくれるのがいいexclamation×2
047.JPG今回購入したのはこちらの熊手お亀のお面お茶の教室に飾るにはちょうどいい大きさわーい(嬉しい顔)この後大将以下5人の半纏を着た熊手商の方が火打石を持って頭の上で切り火「家内安全、商売繁盛、無病息災」と威勢の良い掛け声を掛け三本締めをしてくれた。この三本締めテンションすごく上がる!
044.JPG043.JPGこの後酉の市では必ず売られている「切山椒」という駄菓子を購入

今日は稽古があったのでお干菓子として使うことにしよう
posted by torianchado at 22:53| Comment(0) | 都内散策

2012年09月23日

吉原界隈

目連休の中日雨が降っていたが家族で「東あずま」の親戚の叔父宅へ挨拶へ行ったのち吉原へ行ってみることに車(セダン)吉原といえば花街だが江戸時代はとファッションの発信地でもあった。町人文化の中心で江戸時代の出版業者「蔦屋重三郎」は「吉原細見」という吉原の情報誌を販売して一躍有名になった。
今の場所に吉原ができたのは明暦の大火以降のこと。もともとは今の日本橋人形町あたりにあったらしい。

吉原大門の交差点へ来てみたら「見返り柳」を発見した。
021.JPG022.JPG023.JPG京都島原遊郭の門口にあった柳を模したもので遊び帰りの客がこの柳のあたりで後ろ髪を引かれる思いで遊郭のほうを振り返ったことから名がついた。

この近くでなかなか風情のある建物を発見
目015.JPG017.JPG020.JPG019.JPG明治創業の天ぷら屋「伊勢屋」と桜鍋の「中江」特に「伊勢屋」は雨だというのに長蛇の列ができていた目「中江」には馬肉の店らしい看板も見られたわーい(嬉しい顔)

その後車で移動しながら吉原神社、吉原弁財天と回った。024.JPG025.JPG吉原神社は吉原廓の四隅にあった稲荷社と地元にもともとあった稲荷社の五つを合祀し、さらに吉原弁財天が後で合祀され今の吉原神社になった目

吉原弁財天はこちらは新吉原に廓があった時代池に弁財天が祀られていた。関東大震災のとき、池に逃げた人が溺死してしまいその供養のため大きな観音像が建立された。


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祠は東京藝術大学のサポートによって今年新しくなったとのこと。朱色と紫色がこの地域らしさをあらわしている。
posted by torianchado at 18:20| Comment(0) | 都内散策

2012年03月19日

東光寺(目黒区八雲)

前から存在は知っていたが、今日初めて境内に入り敷地の大きさに驚かされた目近所に住む東京生まれ東京育ちの友人は決まって幼稚園は東光寺幼稚園だという。

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入り口には曹洞宗東光寺の碑が堂々と立っている、江戸時代以前は同じ禅宗の臨済宗のお寺だったらしい目

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入り口反対側には日本の曹洞宗開祖道元禅師の教義「只管打坐」の碑が目お釈迦様にならい、ひたすら座禅に打ち込むことが修行であるという意味。

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お寺の歴史は古く鎌倉時代この辺りを治めていた吉良氏ゆかりのお寺。
あの「赤穂浪士討ち入り」で登場する吉良氏と先祖を同じくする名門の家

山内には吉良氏のお墓も3基ある。

訪れたのがちょうど夕刻で副住職が本堂の戸締りをされていた。お茶室などの設備はないとのこともうやだ〜(悲しい顔)
きれいに掃き清められた山内には七福神や二宮尊徳の石像が点在していた。
幼稚園も併設しているからであろうか全体的に愛らしい表情をしているものが多かったドコモポイント
posted by torianchado at 22:24| Comment(0) | 都内散策

2012年03月17日

駒繋神社(世田谷区)

東京に来て6年ほどたつ。だんだん地理や電車の乗り降り東京に住む人の環境に慣れてきたわーい(嬉しい顔)
逆に18年間馴れ親しんだ京都の地理は忘れつつあるもうやだ〜(悲しい顔)
京都には歴史と公家文化のおくゆかしさがあり来る人の心を和ませる雰囲気がある。
東京は武家社会が生んだ厳しさ、威勢の良さ素朴さが混在する。
武家の名残を感じさせる地名や名所も多い。うちからさほど遠くないところに「鷹番」「駒場」「駒沢」「駒留」「駒繋」馬や鷹などの名前の数々。徳川将軍家の鷹狩の場所であったという話を聞いたことがあるがうなづける目
先日車で通りかかった神社「駒繋神社」住宅街の中にひっそりと朱塗りの橋が架かる場所がある。

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意外に歴史は古く平安時代後半に源八幡太郎義家(源頼朝の先祖)が父頼義公ととともに朝廷の命を受け奥州に向かう途中この地を通過する際に、この神に祈願参拝休憩をした場所と伝えられる。
また、1189年7月源頼朝が藤原泰衡征伐のため立ち寄り祈願した際、愛馬をつないだ松を駒繋と呼び
後に駒繋神社と称するようになったとされる。

ご祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)

また東京暮らしの新たな楽しみがひとつ増えたひらめき
次は何が発見できるか楽しみである。古の人の息吹が伝わってくるそんな神社だった。
posted by torianchado at 17:55| Comment(0) | 都内散策